振り返って

12/28
会社に復帰の相談に行く。課長、係長と1月18日から出社する
ことで合意、スケジュールを決めればもう終わりだ。

例によって係長は多忙で、サクサクいなくなってしまった。
すると課長は、定年になったら、母上を呼び寄せて一緒に住む、
と言う。
それに続けて「ガーデニングもしたいわ〜。定年まであと2年、
そういうことばっかり考えてるの」と言った。そうなんですか、
としか言いようがない。
わたしには、この人はわからない。

わたしより少し年上のユリコさんも、介護休暇をとるのよ、と
言っていた。ヘルパーさんやケアマネさんの話など、先輩顔で
伝える。

この日は、母の通院の日。藤岡の妹(以下セレナ)がクルマで
連れて行き、血液検査の結果もよく、受け答えもはっきりして
いて、先生は次回は3週間後でよい、と言ったそうだ。

12/29
土曜日なので、泊まりの予定で群馬に向かう準備をしていると
セレナから電話。

この日はデイサービスで、朝8時にヘルパーさんが家に来て、
母の食事介助、薬見守り、荷物の準備などをして、デイサービスの
迎えのクルマに乗せてくれることになっていたが、ヘルパーさんが
行っても、「もたもたしていて」、とてもデイサービスには行けない
ようだったので、キャンセルした、という連絡が入ったという。

セレナはこれから様子を見に行くからあとで実家で会おう、
ということになった。

ところが、電車に乗っている途中でまた電話があり、母のところ
に行ってみたら、熱が高い様子なので、これから病院に行く、
という。

そこで、急遽、新町駅で降り、病院で待ち合わせることになった。
病院で会うと、確かに母は、どこというのは難しいが、少し様子が
違う。

救急外来で、主治医の先生はいなかった。
点滴してもらうと熱も下がり、夜には家に帰った。

この時、トイレのことがわからなくなり始めていた。
食事のときは、遠近感がおかしいのか焦点が合わないのか、お箸を
差し出す位置がずれる。ほとんど会話もない。
量はけっこう食べたけれど胸が詰まるしぐさをするので、また
わたしたちは少し慌ててしまう。
それでも、今夜は様子を見るしかないので、夜遅く、セレナは藤岡
に帰って行った。

夜中は、何度か目を覚ましてトイレ。けれどもあまり出ない。
お小水が出なくなる、というのはひとつのサインと聞いていた
から、心配がよぎる。
また、電気の差し込み口を触って「これは薬箱かい?」と
言ったりした。
やはり、なにかただならない状態になりつつあると思った。
明日、大阪の妹(以下トム)一家がくることになっているので、
待ち遠しい。

12/30
自力でトイレが出来ないことがわかったので、オムツにする。
あんなにオムツを嫌がった人が何の抵抗もしなかった。

午後に大阪の一家が来ることは認識していたのか、わたしが
今どこそこ辺りにいるよ、と言うと、「そうかい」と、少し
そわそわするようだった。

わたしは少し前に、自分の油彩を数枚送っていたので、
何か今見せないと機会がないように感じ、あわてて梱包を解き、
母の座っている周りに置いた。けれども、もう、興味を惹かれない
ようで、「へえー」というような反応しかしてくれなかった。

道中のトムに見せようと、携帯で母の写真を撮った。これが最後の
母の写真になった。

午後3時頃、トム一家3人が到着、それまで少し横になっていたが
手を貸して茶の間に。炬燵に座ってぽつねんとしている。
すると唐突に「もうあたしは大丈夫だから」というようなことを
言った。

その後、暗くなりかけた時分に、トイレに連れて行こうとした
とき、やにわに母のからだから力が抜けていくのがわかった。
あやうく、もろとも倒れ込みそうになる。
脳関係がおかしい、とトムたちが騒ぎ出し、救急車を呼ぶ事に
なった。

救急車の中があんなに広いとは、驚きだった。
近所の人たちが大勢見にきていた。おもしろくなかった。
車内では、救命士の人の問いかけに、母はまずまず普通に
答えていた。
「脳ではないと思います」ということで、最寄りの病院ではなく、
いつもの藤岡の病院に行った。
着くと、セレナも合流。

また主治医の先生は不在で、結局点滴のみ。
主治医の先生は元旦には出勤するという。
セレナのクルマで夜遅く帰宅。
セレナは深夜に帰って行った。

トムとわたしとで母を挟んで川の字で寝るが、
なかなか寝付けなかった。

12/31
ほとんど一日中、布団にいた。オムツ替えをふたりがかりでする。
素人目に絶対におかしかったけれど、病院に行くのは翌日まで待つ
事にする。主治医がいないのでは仕方がないから。
叔父や伯母にも連絡。
夕方、コンビニにおせちを受け取りに行く。
夫も到着。
いつもは寂しい家に人が増えて、妙に活気づく。男手があるのは
頼もしい。
寝不足だったため、わたしは久しぶりに熟睡してしまう。

1/1
朝8時、セレナが来る。彼女のクルマで娘3人で母と病院に向かう。

18号線の高崎の高架のところで、珍しく渋滞になった。
ニューイヤー駅伝のために通行止めになっていたのだ。止まった
場所から、選手たち、白バイ、報道車などが見える。
明るい日差しが後部座席の右側に座った母の顔に当たるのを
気にして、隣りに座ったトムがしきりに紙を翳していた。

その時、母は目を開けていてその瞳がまっすぐ前を凝視していた。
母はわたしたちが話しかけるのに答えたかどうか、わたしはもう
憶えていない。

病院に着くと、救急外来は、風邪らしい人びとで混雑していた。
待ちながら、年賀状を書いている人がいた。

ようやく順番が来て、先生が母を見た途端、彼の表情が厳しくなった。
28日から様子が一変していたのだから当然だ。
「爆発かな」と言ったような記憶がある。
即、再入院。10月12日までいた病室だ。最もナースに近い病室。

病室に落ち着くと、顔馴染みの看護師さんが来る。
「退院されると、患者さんのことは忘れるんですけど、ハルコさん
のことは、よくみんなでどうしているかな、って言ってたんですよ」
と言う。強烈な出来事がたくさんあったから、記憶に残る患者だった
のかな。

2時過ぎ、主治医の先生が来られて、説明を受ける。
病気は進行していて、脳に到達したと考えられる、と言う。
こういう場面には、この先生は若すぎるなぁ、と漠然と思った。

3人で話し合い、もう、治療はしない、と決める。

この時にはもう、まったく意識はない、と説明されていた。

今でも、いつの時点で意識がなくなったのかな、とよく思う。

先生は、あと2、3日かもしれないし、2ヶ月保つかもしれないと言う
ので、親戚に連絡する。

これも顔馴染みの看護師長のMさんが、
「もう充分(看護)されましたよ、あとは病院に任せてください」と
言うのだった。

その日は家に帰り、少しはおせちが残っているかと思って
いたけれど、ほとんど食べられていて、ムッとした。
いい大人がこんな事を書くのもどうかと思うが、どんな時でも
食のことは大事なものだ。こんなふうに記憶に残るのだから。

1/2
朝、またしても食事のことで義弟と一悶着。トムは彼にもわたしにも
気を使ってハラハラしている。すまぬ。

洗濯などしてから、病院に行く。

夕方、一旦東京に帰ることにする。
夫が先に帰ったら、猫のナナオが不機嫌で、あちこちに吐いていた
という。

夫の友人が来ていて、久しぶりに愉快に過ごす。

1/4
トム一家が大阪に帰って行った。
夜、帰ろうと病院から出てまもなく、呼び出し。緊迫する。
急遽戻り、その夜は病室に泊まる。

1/10
7日まで病院泊が続く。
小康状態。
どうやら、呼び出したらすぐ来てくれるなら泊まる必要はないよう
なので、ここからは毎日通うだけになった。
だんだん、心の準備が出来ていった。
15日からのスクーリングをキャンセル。18日から会社に復帰は本当に
可能なのか、そろそろ気になり始める。

大学の課題を2月11日の今年度最終提出日に間に合わせて、08年度
卒制着手しようという思惑も、なんとなく自然に、来年度に
スライドしようと決めた。

母の髪が抜け始める。治療をしないはずなのに、どうして?と
思ってしまう。看護師さんに聞くと、抗生剤を使っているから、
ということだった。

なんだかよくわからなかったが、もう、任せるしかない。

葬儀場のことなど、叔父に相談に行く。

朝青龍復活。彼がモンゴルでサッカーした頃、母は不調になったのだ
った。病気の告知を受けたとき、安倍首相が退陣を発表していた。

1/15
18日から会社に行くと決める。
髪が抜けるのが止まった。
血圧や脈などが常時表示される機械が病室に入る。
よくテレビなどで見かけるものだ。名前はわからない。

1/18〜1/20
5ヶ月ぶりに出社。思いの他、多くの人が懐かしんでくれて嬉しかった。

1/21
公休。群馬に向かう電車の中でセレナから電話。明け方急激に血圧
が下がったらしい。