けんちん汁

それは26日の朝に始まった。今思えば、はるか昔のこと
のよう。
妹から、父がふらふらするので入院した、と電話があった。
大したことはなさそう、ということではあったけれど。

27日月曜日、会社から帰り、ここ数日ずっと食べたかった
けんちん汁をつくっているところに、電話が鳴った。
母からだ。
「お父さんがヘンだから、すぐ来てっ!」
と言うので、あとはばたばたと群馬へ。普通のときには絶対
乗らない新幹線とタクシーを使い、10時、病院に着いた。

途中の高崎で、藤岡の義弟から、とりあえず落ち着いた、と
いう電話があったが、ICUに行ってみれば口に奇妙な装置を
付けて苦しそうに首を左右に振る父に、ぎょっとしてしまう。

夫は明朝、大阪の妹夫婦も状況次第ですぐ駆けつけることになる。
母は泊まり込み、わたしはひとりで実家に泊まるのは恐ろしい
ので、藤岡の妹のところに泊まることになる。12時過ぎ、
藤岡に到着。
甥っこふたりの間に潜り込むが、全然眠れず。

28日朝、子どもたちが学校に出かけると、再び病院に向かう。
快晴で山々が美しい。
山の話などしつつ、病院が近づくと、だんだん緊張してくる。

父はわたしたちはわかるようだけれど、朦朧としている。

午前10時、会社に電話して休む連絡。
わたしは病室に戻り、寝ていない母を休ませるため、妹が
クルマで家に送っていく。
ICUに戻ると、処置中とのこと。しばらくして、先生に呼ばれる。
「最善はつくしますが、ここ1、2日が山場です」
と言われる。父を見ると、痰が止まらず苦しそう。見ているのが
つらくてたまらない。

午後1時前、今度は婦長さんに呼ばれ、
「人工呼吸器をつけるかどうか、ご家族で話しあうように、先生に
言われましたか?」と聞かれる。あの表現でそこまで言われたとは
思えないけれど、その流れになることは聞いています、と答えた。

父は顔色が変わり、ますます苦しそうになっている。そこに
母、妹、わたしの夫が入ってきた。母はすぐに動転して、
「なんでこんなになるまで放っておいたんだいっ」と叫ぶと、
大騒ぎで父に取りすがる。わたしたちも、その時がついに来たと
思いこみ、追随。

すると看護婦さんたちがやってきて、すばやく処置を始めた。
わたしたちは外に出される。母は「伯父さんを呼んで!」と言う。
伯父をはじめ、親戚の人たちが来たのが午後3時ごろ。
人工呼吸器を付けた父は、とりあえず小康状態になる。親戚の
人たちは帰り、でも緊張状態は変わらない。
大阪の妹たちは午後3時頃、クルマで出発したと言ってきた。

時間の経つのが遅い。ようやく午後9時半、到着。外で待って、
携帯で道案内をしながらふと空を見ると、満天の星。でも猛烈に寒い。

妹ふたりと母が残り、わたしと夫、義弟は実家に戻る。
義弟ふたりのうち、大阪のほうとは、このところ疎遠だったので、
これを機会に関係が復旧すればいいと思う。彼もそんな気持ち
だったのだろう、夜半まで、語り合った。いろんなことが、
変わっていくものだ。

ふらつく頭で起きたのが午前8時半。29日。藤岡の妹の誕生日。
また怒濤の一日の始まりだ。

夜勤を終えた妹たちが帰宅、入れ替わりにわたしが出動だ。
落ち着いて見渡せば、他の2床にも患者さんがいらしたが、付き
添いなどはいない。

先生は、いろいろ手を尽くされているのがわかる。見守るのみ。
ここは北向きで、榛名山がよく見える。ふと見ると山は白く霞み、
雪が激しく舞っている。

夕方6時、母と大阪の義弟がやってきて、交替。
母は眠ったのか?家に帰ると、母は夕方自転車で買い物に行ったとか。
すごい。

夜中、妹の声がするので、ざわざわした心のまま、起きあがると
緊迫した声で「お母さんが倒れた。毎日飲んでいた薬がなくなった
まま飲んでいなかったのと、多分過労みたい。わたしは薬を取りに
きたけどどうする?行く?」
「行く」
クルマに乗り込み、時計を見ると、まだ午前3時だった。

病院に着くと父はよく眠っている。
心配な母に付き添い、傍らのイスに座る。改めて見ると、蒼白。
深く眠っている様子に一安心だけれど・・・

まんじりともせず、夜明けを待った。30日午前6時過ぎ、
ようやく明るむと希望もわき、じんわりと眠りがやってきたが、
まもなく看護婦さんがやってきて、母を起こし、
「ここがどこかわかりますか?」と聞く。
「病院」
「どこの?」
きちんと答えたので、ほっとする。

看護婦さんから改めてお話がある。こうして周囲がまいってしまう
のはよくないし、ICUにいるのだから、夜、詰めていることはないと
いうことだった。
それで、午前7時ごろ、妹たちと帰宅。3人とも寝不足のため朦朧。
夫と大阪の義弟が洗い物などよく働くのでびっくり。わたしたち姉妹
3人は寒さやらなにやらでカラダが固まったまま、コタツから一歩も
動けず、彼らに感謝の言葉を浴びせ続ける。そして彼らが病院に
出かけると、一応布団に入ってみるけれど、奇妙な興奮は収まらず、
一睡もできない。そのうち大阪から連れてきた甥のツグも起きてくる。
妹の友だちもお見舞いにやってきて昔話などする。

わたしたちの子ども時代の話を、甥のツグが大好きだと言うので、
調子に乗っておしゃべり。
西洋館と呼ばれたきれいな家に住んでいた、小さな3人姉妹の、
ありふれた物語なのにね。

それは、今思えばちょっと残酷なところもあるんだけど、わたしたち
は今でも爆笑してしまう。

そう言えば前日、雪の降るのをICUの外の休憩室の窓から見ていたら、
その家が見えた。もう、昔の面影は、あんまりない。すっかり古く
なったし。でも、わたしはそれを見ながら、もし群馬に帰る状況に
なるのなら今の家でなく、あの西洋館に住みたい、と強く思った。
経済とか今住んでいる人がいるのかとか、いろんなことを考えれば、
どうなんだろう、ほんとに夢なのだろうけど、わたしはあの家に執着
してしまう。

大阪の妹が夕方に体調が復活し、出かけて行った。わたしは家事を担当。
母はいろいろ検査を受けたけれど、特に悪いところはない、という
ことだった。
ただ、週明けまで入院、ということになった。
父は夜、送管はそのままながら、人工呼吸器を外すことができたと
言う。朦朧から醒め、盛んに筆談をし始めたとか。
すごい。

午後11時ごろ、ようやく布団に入った。

31日、久しぶりに爆睡。すっきりと、夜明け前の山が美しい6時半
に目覚めた。体操し、お茶を飲んでいると、妹が起きてきた。

朝ご飯の前に大阪の義弟が、様子を見に病院へ。すぐに帰ってきて
ICUで父の隣りのベッドの人に心臓マッサージをしていて、入れな
かったと言うのだった。

母はすっかり元気で、化粧品を持ってきてほしいと言ったそうだ。
朝ご飯のあと、外は気温が上がって暖かいので、みんなで盛大に
お掃除。
妹は、病院が気になる、と言うので、わたしがそのあとの家事を担当。
甥のツグは以前から仲良しの友だちのところに行き、義弟は買い物に。
ぽっかりとひとりになるけれど、広い家は、落ち着かない。

こんな場面でなんだけれども、猫のナナのことが気になる。
夫が戻って東京の家にいるのだから、安心なんだけれど、あの、
毛の感触と日なたの匂いが懐かしい。夫からは、すねてて、
あちこちにおしっこをしまっくている、と聞いてはいるけど。
やれやれ。

4回洗濯機を回し、手洗いでセーターを洗い、干しに2階の
ベランダに行くと、早くも風が強まってきていた。それがこの辺り
の気候の特徴なのを思い出す。

買い物から帰ってきた義弟と病院へ。すると父の送管が外されて
いた。自力の呼吸は苦しそう。でも、何日か前のことを考えたら、
わたしたちには奇跡にも思われた。
父は、「気力が勝ったか」と書いたそうだ。

わたしは、そのあと、ここ東京に戻ってきた。あしたは仕事をして
それから、また群馬に帰ることになる。

今また、けんちん汁を作っているところ。
ようやく、食べられる。

長い長い5日分の日記、読んでいただき、ありがとう。あ、そうだ、
きのうは、わたしの誕生日だったんだっけ。